前編では、日本のSMB市場では純粋PLGの成立条件が狭く、顧客規模に応じた二階建てのGTMが必要になる構造を確認しました。
「大手企業は受注単価が高いから、開拓する価値がある」。
これは入口にすぎません。重要なのは、1社あたりの売上だけでなく、獲得、導入、継続にかかるコストを含めた収益構造です。
大手企業開拓は、ARPA・ACV、継続率・NRR、Expansion、CAC回収、営業生産性、売上予測性を改善できる可能性があります。
ただし、高単価でも個別開発や導入支援が膨らめば、利益率は上がりません。契約金額ではなく、顧客別の継続粗利で判断する必要があります。
この記事の要点
高ARPAだけを追わない:獲得、導入、CSを含む顧客別の採算を見る
継続とExpansionまで設計する:更新、席数、製品、部署への展開でLTVを高める
ABMで営業資源を集中する:期待収益の高い企業とBuying Groupへ優先的に働きかける
受注件数より営業生産性を見る:CAC回収期間、担当者1人あたりARR、NRRで評価する
すべての企業に適する戦略ではない:長い商談期間、審査、導入支援に耐えられる体制が必要
大手企業は、高い付加価値とIT需要を持つ
大企業は国内企業数では少数ですが、大きな経済価値と複雑な業務を持っています。
企業数と付加価値: 中小企業白書の企業数区分 では、大企業は2021年の国内企業数の約0.3%。一方、 2020年の付加価値額 では44.0%
IT予算: 東証上場企業など957社が回答したJUASの調査 では、52.6%が2025年度のIT予算を前年度より増加。2026年度に予算を増やす理由では、43.7%がAI関連の費用・利用料を挙げた
EUのAI利用: Eurostat では、2025年に大企業(250人以上)で55.03%、小企業(10〜49人)で17.0%
成熟したIT領域ではベンダー統合が進みます が、 BCGのIT支出調査 では、AI・機械学習領域でベンダー数を増やす予定が42%、集約予定が13%でした。
BCGの数値 は北米・欧州のIT責任者330人による将来意向であり、実際の購入実績ではありません。それでも、AI領域では、新しい技術やベンダーを探索する余地がまだ大きいと考えられます。
図解を拡大 だからこそABMが重要になる
ABM(アカウント・ベースド・マーケティング)は、価値の高い特定企業を選び、その企業を一つの市場として捉え、営業・マーケティング・カスタマーサクセスが連携して受注と継続を設計するGTM戦略です。
単に広告の配信先を絞ったり、一斉メールの宛先を限定したりする手法ではありません。
ABMに関する代表的な調査は、次のような結果を報告しています。
Gartner( 出典 ):テクノロジープロバイダーのABMプログラムでは、従来の需要創出・プロスペクティングより11%超のパイプライン増加
TOPO( 出典 ):従来型GTMよりABMが優れていると回答した割合は、LTVで80%、勝率で86%、ROIで76%
Forrester/SiriusDecisions( 出典 ):ABMのROIを報告できた53%の組織のうち89%が、ABM対象は非対象群より高いROIと回答
才流/SBペイメントサービス( 出典 ):対象顧客の期待収益額が5カ月で約2.5倍以上
ここで注意したいのは、 TOPOの80%・86%・76% は改善率ではなく、改善を報告した回答者の割合であることです。また、 国内事例の期待収益額 は「案件金額×受注確度」であり、実際の受注額ではありません。
これらは自己申告調査や単一事例を含むため、ABMだけの因果効果を証明するものではありません。ABMを採用する判断では、対象企業数、契約単価、商談期間、導入負荷を自社データで検証する必要があります。
図解を拡大 大手企業開拓が収益性を高める「6つの理由」
大手企業開拓の価値は、次の6つの指標で捉えると明確になります。
ARPA・ACV: マネーフォワードの決算資料 では、SMB領域のARPAが約7.5万円、中堅企業領域のオーガニックARPAが約120.6万円でした。製品構成と販売方法は異なりますが、年間売上には約16倍の差があります
継続率・NRR: ChartMogul では、月額50ドル未満の価格帯でNRRが32%、月額250ドル超では85%でした。価格帯と企業規模は同一ではありませんが、低単価モデルほど解約を新規獲得で補う負担が重くなります
Expansion:最初の契約を起点に、利用者数、製品、部署、グループ会社へ展開し、既存顧客からのARRを積み上げる
CAC回収:CAC回収期間を「顧客獲得コスト÷月次の顧客別粗利」で捉える。ACVが高くても営業・導入コストが膨らめば改善しないため、セグメント別に確認する
営業生産性:ABMで期待収益の高い企業を選び、商談化率、勝率、営業担当者1人あたりの新規ARRを高める
売上予測性:予算、決裁者、セキュリティ審査、調達、導入時期を可視化し、担当者の感覚ではなく購買プロセスで予測する
重要なのは、ACVだけを見ることではありません。獲得、導入、継続支援まで含めた顧客別の継続粗利で判断することです。
図解を拡大 高単価でも、導入コストが重ければ利益は残らない
大手企業向け契約では、営業期間、セキュリティ審査、個別設定、データ移行、導入支援のコストも増えます。
顧客別の貢献利益=契約売上-営業・導入・CS・インフラ・個別対応コストとして、案件単位の採算を見る必要があります。
獲得:CAC回収期間、勝率、平均商談期間、新規ARR÷営業担当者数
導入:初期設定、データ移行、セキュリティ対応、オンボーディングの工数
継続:GRR、NRR、解約率、Expansion ARR、1社あたりCS工数
初年度売上が大きくても、回収期間が長く、継続やExpansionがなければ、良い案件とは限りません。
図解を拡大 大手企業開拓では、担当者一人ではなく組織を捉える
大企業には、利用部門、情報システム、DX推進、法務、セキュリティ、調達、経営企画など、複数の関係者が存在します。一人の担当者との商談だけでは、受注や全社展開まで進まないことがあります。
そのためABMでは、担当者への接触だけで終わらせず、導入判断に関わる複数の部門・役職をBuying Groupとして捉えます。各関係者が重視する論点を整理し、同じ導入理由で合意できる状態をつくることが重要です。
図解を拡大 そのうえで、ABMを次の5点で設計します。
対象企業を絞る:想定ACV、受注確度、顧客別粗利、導入コスト、Expansion余地で優先順位を付ける
課題仮説を持つ:決算、経営方針、IT予算、組織変化から「なぜ今か」を整理する
Buying Groupを捉える:利用部門、IT、法務、セキュリティ、調達、経営層を一つの意思決定単位として見る
複数チャネルを連携する:電話、メール、手紙、SNS、イベント、紹介を相手の状況に合わせて使い分ける
受注後まで設計する:定着、成果測定、更新、別部署・グループ会社へのExpansionを共通のアカウントプランで追う
図解を拡大 接点も一つの手段に依存せず、電話、メール、手紙、SNS、イベント、登壇情報、紹介を相手の関心とタイミングに合わせて組み合わせます。
Sales Retrieverは、大手企業開拓に必要なターゲットリスト作成、企業リサーチ、組織図・部署連絡先・キーパーソンの特定、登壇情報を活用した接点設計を支援します。
企業名だけのリストから一斉に連絡するのではなく、「どの企業の、どの部署の、誰に、なぜ今提案するのか」を整理することが、営業生産性を高める第一歩です。
前編:日本でPLGとSMB専業SaaSが難しい理由 https://www.sales-retriever.jp/column/saas-enterprise-abm-ai-era
関連記事:1部署で終わらないBDR、大手企業の複数部署攻略 https://www.sales-retriever.jp/column/enterprise-bdr-night-2-report
すべての企業に大手企業開拓が適しているわけではない
大手企業開拓には、長い商談期間、厳格なセキュリティ審査、契約・法務対応、個別導入の負荷が伴います。特定の大口顧客への依存が強くなれば、経営上のリスクにもなります。
次の条件を満たせるかを、開拓前に確認する必要があります。
大企業が優先的に解決したい課題を扱っているか
小規模な有償導入から始められるか
セキュリティや法務の要求に対応できるか
導入とCSを標準化できるか
長い商談期間を支える営業体制とキャッシュがあるか
一社依存を避けられる顧客ポートフォリオを設計できるか
SMBと大手企業は、どちらか一方を選ぶものではありません。SMBはPLGやパートナーで効率的に獲得し、大手企業は営業とABMで高い継続粗利を目指す二階建ての設計が可能です。
大手企業開拓を「収益モデル」として捉える
大手企業を開拓する意味は、契約金額の大きさだけではありません。ARPA・ACV、継続率・NRR、Expansion、CAC回収、営業生産性、売上予測性を組み合わせ、限られた営業・CSリソースから得られる粗利を高めることにあります。
見るべきなのは「大きな契約を取れたか」ではなく、「獲得・導入・継続コストを差し引いた利益が、再現可能な形で残るか」です。
※各調査は対象企業、価格帯、回答時点が異なります。価格帯と企業規模は同一ではなく、ABM調査には自己申告や単一事例も含まれます。大手企業向け案件は営業期間や導入コストも大きくなるため、セグメント別の粗利、CAC回収期間、NRRを自社データで確認してください。
参考情報
営業・収益構造
マネーフォワード「2026年11月期 第2四半期決算説明資料」
ChartMogul「SaaS Billing Report」
ChartMogul「The SaaS Retention Report: The AI churn wave」
Eurostat「20% of EU enterprises use AI technologies」
BCG「Taking Control of Enterprise Software Costs」
ABM
Gartner「2025 Tech Marketing Benchmarks Survey: Account-Based Marketing Insights」
TOPO「2019 Account Based Benchmark Report」